今から54年前の秋、病床の母の名前を何度も呼びかける、切羽詰まったような父の声に、夕食中の姉と私は、箸を止めて 一瞬恐怖におののいた様な目を合わせてしまった。
その夜、母は33歳の若さで愛する家族を残して、旅立って逝った。
小4の私は、母の兄が、牛久に嫁いでる母の姉に、電報を打つのに電文を父と確認し、郵便局に向かう姿を、何故か鮮明に今でも覚えている。
いまだに「危篤」という言葉を聞くとその情景が、目に浮かぶ。
確か運動会の時期で、その年の前年も祖父のお葬式にぶつかってしまった記憶がある。
それからの私の人生は、波乱と不幸の連続で、今もその続きを生きている。
想えば色んなことがあり、幸せの架け橋のような右肩上がりの20年、そして 放物線を描くように下降線の30年・・人生山あり谷あり、登り坂下り坂と言うが、真坂ばかり・・・ 妻の名を囁くように口ごもって病院のベットで見送ったのが、10年前でした。
母の枕もとで母の名前を呼び続けていた父を(92歳)、今度は私が父の名前を呼びかける番になってしまった。
夜中に嫌な夢を見て目をさまし、仕方なしに読書をしても頭に入らず、淋しさにまた嫌なことを考え、ラジオの深夜放送は、戸外の風の音とコラボする様なクラシックのメロディーが、私の心を押しつぶそうとしています。
確かに楽しい幸せなことも有り、盆と正月が一緒に来たような時期もありましたが、一瞬の夢のようで、神様は何にゆえに私にこのような、繰り返す波のような試練を与えているのか・・・男である前に人間である。
折れそうな心をこの先どうやって奮い立たせればいいのか、一人で酒の苦さをかみしめる 私は弱い人間です。
「西風に揺れる給油の灯油缶 父の命か宵の明星」
その夜、母は33歳の若さで愛する家族を残して、旅立って逝った。
小4の私は、母の兄が、牛久に嫁いでる母の姉に、電報を打つのに電文を父と確認し、郵便局に向かう姿を、何故か鮮明に今でも覚えている。
いまだに「危篤」という言葉を聞くとその情景が、目に浮かぶ。
確か運動会の時期で、その年の前年も祖父のお葬式にぶつかってしまった記憶がある。
それからの私の人生は、波乱と不幸の連続で、今もその続きを生きている。
想えば色んなことがあり、幸せの架け橋のような右肩上がりの20年、そして 放物線を描くように下降線の30年・・人生山あり谷あり、登り坂下り坂と言うが、真坂ばかり・・・ 妻の名を囁くように口ごもって病院のベットで見送ったのが、10年前でした。
母の枕もとで母の名前を呼び続けていた父を(92歳)、今度は私が父の名前を呼びかける番になってしまった。
夜中に嫌な夢を見て目をさまし、仕方なしに読書をしても頭に入らず、淋しさにまた嫌なことを考え、ラジオの深夜放送は、戸外の風の音とコラボする様なクラシックのメロディーが、私の心を押しつぶそうとしています。
確かに楽しい幸せなことも有り、盆と正月が一緒に来たような時期もありましたが、一瞬の夢のようで、神様は何にゆえに私にこのような、繰り返す波のような試練を与えているのか・・・男である前に人間である。
折れそうな心をこの先どうやって奮い立たせればいいのか、一人で酒の苦さをかみしめる 私は弱い人間です。
「西風に揺れる給油の灯油缶 父の命か宵の明星」